東京高等裁判所 平成8年(ネ)1163号 判決 1998年9月30日
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 控訴人は被控訴人に対し、被控訴人から金四〇〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、別紙物件目録記載の建物部分を明け渡せ。
2 被控訴人のその余の請求を棄却する。
二 訴訟費用は第一、二審を通じて二分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人の負担とする。
理由
【事実及び理由】
第一 当事者の求めた裁判
控訴人は、「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審を通じて被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。
第二 事案の概要
一 当事者間に争いのない事実等
1 被控訴人は、別紙物件目録記載の建物部分(以下「本件建物部分」という。)を含む同目録前段記載の店舗兼居宅(以下「本件建物」という。)の所有者である。
2 被控訴人の亡夫である町田嘉恵治は、昭和二八年三月本件建物部分を控訴人の元代表者松木孝之の父松木久義に賃貸し、この賃貸借契約は、その後更新を続けた。
3 この間松木久義は借主名義を控訴人(商号は、当時有限会社丸義百貨店であったが、その後、現在の名称に変更した。)に変更した。
4 被控訴人は、平成元年八月二四日期間満了に際して本件建物部分を更に平成元年五月一日から平成三年四月三〇日までの期間、賃料一か月二六万一三六〇円、使用目的店舗の約束で控訴人に賃貸した。その後控訴人と被控訴人との間では賃料値上げをめぐって話し合いがつかないまま、平成三年五月一日法定更新され、以降は本件賃貸借契約は期間の定めがなくなった。
5 被控訴人は、平成四年一〇月二二日到着の内容証明郵便により、控訴人に対し、本件建物の土台等が腐食し梁も亀裂が入って危険であり、防火地域で堅固建物が増加している近隣の状況等から建替えの必要性が切迫していることを理由として本件賃貸借契約の即時解約を申し入れ、仮に右即時解約が認められないときは、併せて本件賃貸借契約の更新拒絶を申し入れるとして、平成五年四月末日までに本件建物部分を明け渡すよう求めた。
6 被控訴人は、当審において、予備的請求原因として、立退料の提供と引換えによる本件建物部分の明渡しを求め、被控訴人による本件賃貸借契約の解約申入れの正当事由の補完として金五〇〇万円又は裁判所の相当と認める金額の立退料を提供する用意があると述べた。
二 争点
1 本件建物の朽廃による本件賃貸借契約の終了の有無
2 本件賃貸借契約の解約申し入れの正当事由の有無
三 争点に対する当事者の主張
1 争点1に対する当事者双方の主張は、原判決書二枚目裏一行目から四枚目裏六行目までの記載と同一であるから、これを引用する(但し、原判決書二枚目裏一〇行目及び四枚目表四行目の各「不等沈下」を「不同沈下」に改め、四枚目表五行目の「前記改築の際」の前に「昭和三四年の」を加える。)。
2 争点2に対する当事者の主張
(一) 被控訴人
被控訴人の本件賃貸借契約の解約申入れについては、次のとおり正当事由がある。
(1) 建物の朽廃もしくは老朽化
争点1関係で主張したとおり本件建物は昭和二一年一〇月に建築され、既に五〇年を経過し、外壁のモルタルの落下、屋根又は壁面からの漏水、地盤の不同沈下、建物の傾きの顕在化等からその老朽化は明らかであり、その危険防止の観点や近隣に防火建築の堅固建物が増加している関係からの防火上の観点や土地の有効利用の観点からも速やかな建替えの必要に迫られている。
控訴人が提出した中村幸安作成の鑑定書では、相当程度の補修工事を施せば本件建物の寿命は一〇年程度延命するとされているが、仮に相当の規模にわたる右工事をしたとしても、なお一〇年程度の耐用年数しかないほど、本件建物の老朽化は進行している。さらに右鑑定書でも、本件建物の傾斜度が一メートル当たり一五・六ミリ程度であることからこれでは通常の生活は不能であると判定しており、居住の用に供し得ない甚だしい不都合が生じている。さらに、地震等の災害や建築工事の影響などにより倒壊の危険性も否定できない。
(2) 被控訴人らの自己使用の必要性
被控訴人及び同人の長男町田清の一家(以下「被控訴人ら」という。)は、現在本件建物の二階部分に居住しているが、二階部分が傾斜しているため、その健康にも障害を来している。被控訴人らは、本件建物の近隣にマンションを所有しているが、このマンションは、もともと床面積が一〇坪程度の二Kの間取りで、被控訴人ら全員が生活を送ることは到底不可能であるばかりか、現在は既に事務所として他に賃貸中であり、被控訴人らが居住用として使用することはできない。なお、被控訴人らは大田区中馬込にマンションを所有しているが一四戸分の賃貸ワンルームマンションであって被控訴人らの住居には使えない。また、被控訴人らは、右大田区中馬込のマンションの地下倉庫の一部でドアハンドルやノブなどの金属部品の仲卸業をしているが、本件建物の場所でこれらインテリアウェアの陳列販売を行うことを計画しており、この点からも本件建物を建て直して、店舗及び住居として使用する必要がある。
(3) 立退料の提供
以上の事由のみでは被控訴人の本件賃貸借契約解約申入れの正当事由として十分でないとすれば、被控訴人は控訴人に対して正当事由の補完として金五〇〇万円又は裁判所が相当と認める金額を提供する用意がある。
(4) よって、被控訴人は控訴人に対し、主位的には建物の朽廃ないし老朽化、自己使用の必要性などに基づく解約申入れを原因として無条件の本件建物部分の明渡しを、予備的に被控訴人から金五〇〇万円又は裁判所の相当と認める金額の立退料の支払を受けるのと引換えに、本件建物部分の明渡しを求める。
(二) 控訴人
被控訴人の本件賃貸借契約の解約申入れについては、次のとおり正当事由がない。
(1) 本件建物は朽廃の状態にはない。
本件建物の基礎には厚さが少なくとも三〇センチメートル以上のコンクリート打設がされており、基礎は朽廃していない。また、本件建物の根太や南側(裏側)の部分の土台の含水率は、一般の木造建物の含水率を下回っており、木造部分も腐朽の程度は大きくなく、物理的残余寿命は意外な程十分にある。そして、中村幸安作成の鑑定書によれば、<1>現状の一階の鉄柱の四本にブレース(筋違い)を施す、<2>二階床の傾斜している部分を水平に補修する(構造材には触れない)、<3>建物外壁のモルタルを剥がしてセメント系サイディングに張り替える、<4>在来の木製梁と仮処分により認められた補修工事で設置された新規の鉄製梁との間の縁を切る(つながりを切り離す。)、という四点の比較的簡易で安価な工事をすることで、「居住性能」は回復し、しかも建物の寿命は少なくとも更に一〇年は延びるとされている。
さらに、中村幸安作成の「上申書」によれば、「本件建物の小屋裏組や床材等の断面の大きさ等は、戦後間もなくの建物にしては珍しく大きなものが用いられており、最近建築されるものに比べて遥かに構造耐力性能の優れたものである。しかし、構造耐力上主要部分である土台、柱(下部)等の腐朽は部分的に進んでおり、耐力壁は少なく、緊急に補強しなければ、新しい耐震設計基準で前提としている地震が襲ってきた場合、大きな被害を受けることは確実である。しかし、それは腐朽によるものではなく、古い基準によるものである(注・本件建物は古い耐震設計基準で建築されており、新しい耐震設計基準で前提とされる地震に対しては問題があるとの意と理解される。)。しかし、指摘した土台の取替え、柱下部の補修、構造材の接合部分の補強等を行えば(工事費は三~四〇〇万円)、建物の耐震性能、耐久性能は新築建物並みに甦ることは確実である。」とされている。このことから、本件建物が朽廃したとは到底いえないし、老朽化が進んでいるといっても適切な補修工事により当分の間なんら使用に差し支えがないことは明らかである。
(2) 控訴人の建物使用の必要性
控訴人は、本件建物部分において「高級婦人下着」等の小売業を営んでいる。「高級婦人下着」の店舗は、その取扱商品の性質上、その土地柄や立地条件が営業をするうえで重要な要素となる。本件建物の存在する麻布十番商店街は、歴史のある古い商店街である。周辺には外国の大使館や領事館等が存在し、また麻布、白金、広尾などの高級住宅地を控えているため比較的裕福な住民が数多く居住し、赤坂、六本木に近く、水商売の女性も多く居住していることから「高級婦人下着」の店舗としては、他に類を見ない程の好立地条件といえるのである。
そして、「高級婦人下着」の店舗の性質上ショウウインドウを通して控訴人の商品が見渡せることが店舗として不可欠な条件となっており、従ってビルの地下や二階では到底「高級婦人下着」の店舗としては成り立たない。このように、本件建物の一階を店舗として使用することは、控訴人の経営上必須の条件となっており、これに代わり得るような場所は他にない。
控訴人は、亡松木孝之(昭和一一年八月生)とその妻で現代表者の松木克枝(昭和一七年九月生)の二人で経営してきた個人会社であり、夫婦には本件建物一階(本件店舗)からの売上以外には収入の道はなかった。ところが、松木孝之は肝細胞癌により平成八年四月に五九歳で死亡し、妻松木克枝と一人息子の松木基容(昭和四三年一〇月生)が残され、やむを得ず松木克枝が控訴人の代表者に就任し、生活の糧を得るため一人で家事と店舗業務一切を切り盛りしている。松木克枝の今後の収入の道は、本件店舗における営業以外には考えられず、仮に本件建物部分から立ち退くとなれば、松木克枝は生活の手段すべてを失う結果となる。
(3) 被控訴人の自己使用の必要性に対する反論
被控訴人の長男町田清は、本件建物のすぐ近くの麻布十番会館の中にマンションを有しており、本件建物の二階にあえて不便を忍んで居住し続ける必要はない。また、被控訴人は大田区中馬込には四階建てのマンション一棟を有している。被控訴人の主張するとおり、本件建物の二階の居住環境が著しく劣悪なのであれば、近くのマンションや中馬込のマンションを使用すればよいはずである。それにもかかわらず、被控訴人らが本件建物の二階に居住し続けるのは、本件裁判の結果に有利であると判断したためであり、これらの事実を無視して被控訴人らが自己使用の必要性を解約申し入れの正当事由とすることは、信義則上許されないというべきである。
また、被控訴人らは本件建物の明渡しを受けた場合には建物を建て替えて一階でドアハンドルやノブ等のインテリアウェアの陳列販売に使用することを計画しているというが、それは被控訴人自身の自己使用の必要性とは無関係であり、仮に被控訴人の長男において必要があるとの主張であるにしても、その長男の現在の仕事の内容や、なぜ本件建物を建て直してその一階でインテリアウェアの陳列販売場として使用する必要があるのかが明らかでなく、また被控訴人らが本件建物の建替資金を金融機関から借り入れることは、被控訴人ら所有不動産の担保余力からみて不可能なはずである。
(4) 立退料について
被控訴人は、正当事由の補完として、金五〇〇万円又は裁判所が相当と認める立退料を提供する用意があるというが、金五〇〇万円前後の立退料では到底正当事由を補完するものとなるとはいえない。
仮に立退料により正当事由が具備されるというためには、狭義の借家権価格六〇〇〇万円、平成五年に控訴人が行った店舗改装費用三九五〇万円の定率法による現価率七六パーセントを乗じた三〇〇〇万円、移転に伴う営業補償一三八〇万円(内訳・移転に伴う損失補償額として九三〇万円、移転費用二五〇万円、移転広告費用・閉店費用としての二〇〇万円)の合計一億〇三八〇万円の立退料が支払われるべきである。
第三 争点に対する判断
一 争点1(本件建物朽廃による本件建物賃貸借契約終了の有無)について
1 《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
(一) 本件建物は昭和二一年一〇月に新築され、昭和三四年に改築したものであり、かなり老朽化しているとみられるが、平成四年一〇月に控訴人は二階落下防止と内装改装を目的とする修繕工事妨害禁止の仮処分決定を得て、平成五年に入り本件建物部分一階天井についてH鋼を縦横に組み合わせた梁を旧来の木製梁の下に設置し、既存の四本の丸鉄柱の周囲をコの字型鋼を向かい合わせに組み立てて補強し、照明や空調器具を新規に設置したH鋼の一階天井梁から吊り下げるなどを内容とする内装工事を行った。もっとも、右仮処分の目的としたところと異なり、実際に行われた工事は、本件建物部分に悪影響を与えないことに配慮しつつも、補強を直接の目的とはせずもっぱら内装工事の範疇に属するものであった。
(二) 本件建物の北側(道路側)の基礎はコンクリート布基礎であり、南側(裏側)は捨てコンクリートの上に大谷石を積み上げた基礎で、店舗部分の床下には三〇センチメートル以上の厚さでコンクリートが打設されベタ基礎としての機能を有している。大谷石基礎や木部土台に一部亀裂や腐食がみられるが、普通の建物と同等の経年変化の域にとどまる。ただ建物荷重とコンクリートベタ基礎等の重みにより地盤の圧密沈下を生じ(《証拠略》によれば、本件建物の地域の地盤は堅固なものではないことが窺える。)、その影響により本件建物は北々東の方角に一メートル当たり約一五・六ミリメートル程度傾斜しているが、この建物傾斜(二階の不陸状態(水平でないこと)も含めて)はいわゆる揚家の方法によれば比較的簡単に矯正が可能である。
(三) 本件建物一階の天井裏からみると、一階と二階の間の在来の軸組(柱、梁等)に腐食はなく、二階小屋組の変形もなく丈夫にできており、店舗床下の根太、建物南側の部分の土台などの含水率も少なく、全体として本件建物の木部の腐朽状態は軽い状態にある。
建物外部にあっては、モルタル塗り部分は下地部分が老朽化しており、表面からの塗膜防水処理をしても余り効果は長持ちしない。しかし、小屋裏等の木部の状態からみて、現在のモルタルを剥がし、その上に下地としての断熱材を施し、セメント系サイディングを張れば、建物の自重も増やさず、デザイン的にも周辺の景観にかなったものとなり、建物寿命は大きく延びる。
控訴人が仮処分決定を得て平成五年二月に行った一階の改修工事は、本件建物の在来の部分に影響を与えることを避けながら控訴人の営業上の考慮から内装工事を行うことを主眼としたものと認められ(この意味で仮処分申立ての理由としたところと実際の工事の意図、内容にはくい違いがある。)、一階の内部にH鋼の枠組みによる小さい小屋を作るような方法がとられたため、本件建物それ自体の強度には少なくとも悪影響は与えていない。むしろ、地震などにより二階部分が倒壊したり陥没した場合でも、新規に設置したH鋼枠組みがこれを藤棚のように下支えする作用を果たすことが考えられ、またそれまで在来の梁ないし天井から吊り下げていた空調機などを新設のH鋼枠から吊り下げるようにしたため、その分本件建物への重量負荷を軽減したことは考えられるところである。
本件建物の木部の腐朽状態は深刻なものでなく、土台等主要構造部の腐朽は若干あるとはいえその程度にはまだ余裕があるとみられるが、本件建物の傾きは一メートル当たり一五・六ミリ程度あり、二階は居住に適した状態とはいえない。そこで、<1>一階の鉄柱の四本にブレース(筋違い)を施す、<2>二階床の傾斜している部分を水平に補修する(構造材には触れない)、<3>建物外壁のモルタルを剥がしてセメント系サイディングに張り替える、<4>在来の木製梁と仮処分により認められた補修工事で設置された新規の鉄製梁との間の縁を切る(つながりを切り離す。)、という四点の比較的簡易な工事をすることで、「居住性能」は回復ししかも建物の寿命は少なくとも現状より更に一〇年は延び、これに加えて更に土台の取替え、柱下部の補修、構造材の接合部分の補修、筋違い補強等を行えば(費用は五〇〇万円前後)、本件建物の耐震性能、耐久性能は新築建物並みに甦ると予想される。
2 以上の事実によれば、本件建物は経年による老朽化と建物荷重及びコンクリートベタ基礎の重みなどから地盤の圧密沈下が生じており、全体として北々東にやや傾斜し特に二階は不陸を生じていてこのままでは居住に適しない状態になっていることが認められるが、一階(店舗部分)は、工事妨害禁止仮処分命令を得て平成五年二月に行った工事(天井にH鋼の枠組みを作り、旧来の丸鉄柱などをコの字型鋼で補強)により営業に何ら差し支えがない状態である。そして、建物の基礎や土台にも一部腐食はあるものの深刻な状態には至っておらず、建物の傾きや二階の不陸状態も比較的簡易な工事により矯正が可能であることなどから、建物全体としては前記のような筋違い補強や外壁材取替えなど適切な補修を加えればなお相当期間その効用を果たし得る状態にあるというべきであり、現に朽廃により建物としての社会経済的効用を失ったとはいえないことはもとより、近く朽廃に至る状態にあるともいえないから、建物朽廃により本件賃貸借契約は終了したとする被控訴人の主張は理由がないというべきである。
原審における鑑定人青戸純の鑑定結果は、建物の基礎と土台に致命的な朽廃がみられ、本件建物は新規に建て替えるのが相当であるとするが、建物の基礎と土台に致命的な朽廃がみられるという点は乙第三八号証(中村幸安作成の鑑定書)などの証拠に対比すると採用できない。また、青戸鑑定は、平成五年に被控訴人がした工事について既存の建物の主体構造に負担をかけずに補強工事をすることはできず、各柱も違った速度で沈下することが考えられ不同沈下が予想されるとするが、明確な根拠が示されておらず、かえって前掲証拠によれば、本件建物の二階の不陸や建物の傾き、外壁の補修などは比較的簡易な工事による矯正と補修が可能であり、土台や柱下部の修復、筋違いの補強などにより耐震性能や耐久性能の向上も十分に可能であることが認められる。そうすると、青戸鑑定は全体としてこれを採用することはできないというべきである(《証拠略》によれば、青戸鑑定人は平成五年の控訴人による本件建物一階への工事を二階の梁の補強を含めて本件建物の構造体への補強を目的としたものと理解し、それに応じた工事がされていないとみたことが認められ、そのような認識が同鑑定人の鑑定結果に影響を与えたものと考えられる。)。
二 争点2(本件賃貸借契約の解約申入れの正当事由の有無)について
1 被控訴人は、平成四年一〇月二二日到達の内容証明郵便により、控訴人に対し、建物の老朽化と建替えの必要の切迫性などの理由から本件賃貸借契約の即時解約を申し入れ、仮に右即時解約が認められないときは、併せて本件賃貸借契約の更新拒絶を申し入れるとして、平成五年四月末日までに本件建物部分を明け渡すよう求めたことは、当事者間に争いがない。
《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
(一) 本件建物は、もと被控訴人の夫町田嘉恵治が借地上に昭和二一年に建築したもので、一階がパチンコ店としての店舗部分と居宅としての六畳、六畳、三畳の居住部分、二階が六畳の居住部分で構成されていた。昭和二八年に松木久義は、一階の店舗部分と一階の六畳の居住部分を賃借して丸義百貨店の名で営業を始めた。その後昭和三四年に本件建物は全面的に改築され、建物はほぼ総二階となり、一部は全部店舗用とし、二階は台所のほか四・五畳、六畳、七・五畳、八畳などを設け、一階と二階の半分とを松木久義は賃借した。その後昭和五五年ころ、控訴人は被控訴人から二階の返還を求められたので、控訴人は商品置場と従業員の休息用としての二階の一部を残して他の二階部分を返還した〔なお、本件建物の敷地(現在の港区麻布十番二丁目三番九宅地七五・七六平方メートル及び同所三番二五宅地三七・三七平方メートル)は、もと中村藤吉の所有であり、町田嘉恵治は当初これを借地して建築したものと窺える。その後右敷地のうち麻布十番二丁目三番九については、昭和五四年五月に中村藤吉の相続人中村幸四部から町田嘉恵治に売買を原因として所有権移転登記がされ、昭和五七年三月一五日相続を原因として昭和六〇年三月一八日受付で被控訴人に所有権移転登記がされている。残りの麻布十番二丁目三番二五の土地については、現在被控訴人の長男町田清が所有し、これを被控訴人が建物所有目的で平成八年五月一日から二〇年間賃借していることが窺える(当審鑑定人緒方瑞穂の鑑定の結果参照)〕。
(二) 本件賃貸借契約は三年ごとに更新されてきたが、平成元年頃から、賃貸借の期間、賃料、建物補修をめぐって契約当事者関係が円滑を欠くようになり、控訴人は平成三年七月二九日に賃料を一か月二八万七四九六円と定めることと一階の建物の補修と内外装工事の承諾を求めて東京簡易裁判所に調停を申し立てた。右調停の中で、被控訴人は、建物を建て替え、建替後の建物を控訴人に賃貸する方式での和解案を提示したが、建替後の賃借部分の広さなどをめぐって話し合いはつかず、同年一二月に調停は不成立で終了した。そこで、控訴人は、平成四年五月一八日付けで、亀裂が入った梁の補強等の工事について、賃借人の必要費償還請求権の範囲内のものとして「建物の修繕に対する妨害禁止の仮処分」を申し立て、同申立ては、その後話合いにより控訴人において取り下げた「北側正面外壁のラスモルタルの吹き替えによる雨漏り防水工事」部分を除き、同年一〇月一三日に申立てどおり認容された。
これに対して、被控訴人は、平成四年一〇月二二日到達の内容証明郵便をもって控訴人に対し、本件賃貸借契約を解除すること、仮にこの解除原因が認められないときは本件賃貸借契約の更新拒絶をするので平成五年四月末日までに本件建物を明け渡すことを求めた。
その後、控訴人は右仮処分決定に基づき、平成五年二月ころ、一1で認定したような内容の工事を行った。右工事は、一階天井部分と既存柱部分にH鋼又はコの字型鋼の枠組みを作ったものであり、これが本件建物二階に対し間接的に下支えの効用を果たし得ることは前記認定のとおりであるが仮処分申立ての理由としたところと異なり、本件建物の梁等の補強を目的としたものではなく、むしろ本件建物の本体部分に触ることなく所期の内装工事を行うためのものであった。そして、右補修内装工事には約四〇〇〇万円の費用を要した。
工事完成後の平成五年四月三〇日に、被控訴人は控訴人に対し本件建物部分の明渡しを求める本訴を提起した。
(三) 被控訴人側の事情として次のものがある。
被控訴人は、大正四年六月生まれで、昭和五七年三月一五日に夫嘉恵治死亡により本件建物及びその敷地である港区麻布十番二丁目三番九宅地七五・六七平方メートルを相続した。被控訴人は、現在長男清、長男の妻と二人の子供の五人家族で本件建物の二階部分に居住しているが、二階の所々が傾斜しているため、日常のドア、襖、ガラス窓の開け締め、冬の隙間風、台所の調理台の傾斜、トイレの流れの不具合など生活面で多くの不都合がある。もっとも、長男の清は、本件建物近くの麻布十番会館ビル内に二Kのマンションを持ち、そこに一家で寝泊まりしていた時期もあったが、現在は右マンションは他に賃貸している。
被控訴人と長男の清は、平成三年に大田区中馬込に四階建てのマンション(名称オセアニックマンション)を建築し共有している。右マンションは一四室あり、その賃貸収入で建築資金を返済している。被控訴人の長男の清は、夫婦でドアハンドル、蝶番などの金属部品や船舶無線機等の仲卸業を右中馬込マンションの倉庫に机と電話を置いて営業している。
本件建物所在地は、港区の中心で六本木に近く、近くに地下鉄駅を建設中であり、商業地域、建ぺい率八〇パーセント(耐火建築の場合一〇〇パーセント)、容積率五〇〇パーセント、防火地域で利便性に富んでいるところから、被控訴人は、控訴人から本件建物の明渡しを受けた場合には、本件建物を取り壊し、跡地に七階建て程度の事務所ビルまたは賃貸マンションの建築を計画している。平成三年に控訴人が申し立てた建物賃貸借関係の民事調停や平成四年に控訴人が申し立てた建物の修繕に対する妨害禁止の仮処分の審理の過程で、被控訴人は本件建物を建て替え、建替後の建物の一階又は二階を控訴人に賃貸する形での和解案を提示したこともあったが、現在は控訴人との賃貸借契約の紛争も長期化したことや感情的な対立から、建替後の建物に控訴人を再入居させる形での解決は考えていない。被控訴人の長男夫婦は、本件建物を取り壊し新しいビルの建築ができた場合にはその一階はドアハンドルその他のインテリアウェアのショウルームとして用い、これらインテリア関係商品の陳列販売をしたいという計画を持っている。
(四) これに対して、控訴人側の事情として次のものがある。
控訴人は、昭和三〇年代半ばころから、本件建物において「高級婦人下着」等の小売業を営んでいる。本件建物の存在する麻布十番商店街は周辺には外国の大使館や領事館等が存在し、また麻布、白金、広尾などの高級住宅地を控えているため比較的裕富な住民が数多く居住し、赤坂、六本木に近く、水商売の女性も多く居住していることから「高級婦人下着」の店舗としては、極めて立地条件に優れ、毎週ウインドウディスプレイを変えるなどの努力を傾けたこともあって営業は順調に推移し、昭和六〇年ころから平成三年までワコールやクリスチャンディオールの全国専門店洋品部門で連続第一位に表彰されたこともあった。
控訴人の現代表者の経験では、麻布十番のメインストリートに面した一階でしかもショウウインドウを通して控訴人の商品が見渡せることが「高級婦人下着」の店舗として成功したことの不可欠な条件となっており、他の通りやビルの地下や二階では到底「高級婦人下着」の店舗としては成り立たない。控訴人は、平成四年に、近くの「二の橋」の場所で同様の高級下着専門店「グルース」を出店したが、赤字続きで二年近くで閉店せざるを得なかった。控訴人代表者は麻布十番近辺で現在の控訴人の商売が成り立ち得るような店舗を捜してみたこともあったが、本件建物に代わり得るような場所は他に見つけることができなかった。
控訴人は、亡松木孝之(昭和一一年八月生)とその妻松木克枝(昭和一七年九月生)の二人で経営してきた個人会社であったが、松木孝之は肝細胞癌により平成八年四月に五九歳で死亡し、その後は妻松木克枝が控訴人の代表者に就任した。松木克枝には、一人息子の松木基容(昭和四三年一〇月生)がいて、同人は現在は会社勤めをしているが、いずれ脱サラして本件店舗による小売業を継承する計画を有している。松木克枝は、住居としては元麻布にマンションを所有しているが、本件店舗による営業が唯一の生活の資となっている。
2 以上によれば、本件建物の建築年数、本件建物の所在地区が高級マンションや外国の大使館などが多く存在する麻布、六本木に近く、商業地区で、近くに地下鉄駅も間もなく開業が予定されているという立地条件などから、本件建物を取り壊し、七階建て程度の事務所ビルまたは賃貸マンションに建て替えることにより自己又は長男清が所有するその敷地の有効活用を図りたいという被控訴人の要望はそれ自体無理からぬものがあるが、 一方控訴人の本件建物一階の店舗継続の要請も切実であり、本件建物部分の明渡しによって、固定客がつき軌道に乗っている高級婦人下着販売の営業も場合によっては廃止に追い込まれるということは控訴人の現代表者の唯一の生活の資を奪うことになり、控訴人にとって大きな不利益となることは明らかである(なお、被控訴人らは現在の本件建物二階の不陸傾斜による居住性能の劣悪さを強調するが、被控訴人らは本件建物のすぐ近くの麻布十番会館の中に二Kのマンションを有し、被控訴人は長男清と共有で大田区中馬込には四階建ての賃貸マンション一棟を有しているほか、本件建物以外に居住用建物を確保することはそれほど困難ではないと考えられるから、生活の本拠としての被控訴人の本件建物使用の必要性については疑問の余地があり、また、被控訴人の長男夫婦は、本件建物の明渡しを受けた場合には建物を建て替えた上七階建てのビルやマンションを建築し、その一階をショウルームとして、ドアハンドルやノブ等のインテリアウェアの陳列販売に使用することを計画しているというが、右ショウルームの実際の必要性などについてはいまだ具体性に乏しいものがあるといわざるを得ない。)。
このようにみると、本件建物部分の使用の必要性は控訴人の方が勝っているというべきであって、被控訴人の解約申入れは、それのみでは正当事由を具備しているとは認めがたい。
3 被控訴人の予備的請求原因について
(一) しかし、本件建物の所在する場所は麻布十番のメインストリートに面し、平成一一年ころには近くに二つの地下鉄駅も新設される予定で、商業地域、容積率五〇〇パーセントで、周囲には中高層のビルが少なからず建築され、土地の再開発、高度利用が徐々に進んでいるところ、本件建物は昭和二一年建築(昭和三四年改築)の二階建て建物で、いますぐに朽廃するわけではないとしても老朽化はかなり進行し、賃借部分の一階については控訴人が平成五年二月に施した天井の補強工事などにより営業に支障はないとしても二階は現状のままでは不陸傾斜により生活に適しない状態となっていて、社会経済的な観点からは建物敷地の有効利用が図られているとは到底いえない。したがって、今後相当額の費用をかけて本件建物の延命を図るよりは建物の建替えを行って高層化し、自己所有建物で家族らとの居住と営業を実現したいとの被控訴人の希望も社会経済的な見地からは首肯されるというべきであり、被控訴人において本件建物部分明渡しによって控訴人に生ずる不利益をある程度補填することができれば、被控訴人の解約申入れは正当事由を備えるに至ると解するのが相当である。
(二) 当審鑑定人不動産鑑定士緒方瑞穂は、賃借期間を二年とした場合の賃料差額補償方式により借家権価格を約一六〇七万円、今後の賃借期間を一〇年とした場合の控除方式によるそれを約一三三八万円(控除方式による借家権価格の金額自体は二六七五万円と算定されるが、その二分の一ずつを家主と借家人で分け合うべきとする。)、借家権割合方式によるそれを約一四五九万円と算定し(ただし、敷地割合については更地価格に借地権割合八〇パーセントと借家権割合三〇パーセントを乗じ、それにより得られた数値に対して現存建物の階層別効用積数を最有効使用を前提とした階層別効用比率の積数で除するという方法を採用している。)、これらを総合して本件の借家権価格を一四六八万五〇〇〇円と算定するのが相当であるとしている。
しかし、緒方鑑定中、賃料差額補償方式において賃借期間を二年としている点は、公共事業の施行に伴う損失補償基準を参考にしているが、本件のように長期にわたる賃貸借契約において更新拒絶により明渡しを求める場合に直ちにその基準を用いることについては疑問の余地があるし(本件建物は比較的簡単な修理により少なくとも一〇年寿命は延びるとする前記乙三八の中村幸安作成の鑑定書や当審における中村証言に照らせば、借家権価格算定に当たり賃借期間を二年とするのは適当でない。)、控除方式により得られた数値も階層別効用比を含め計算の根拠には数多くの仮定的数値が用いられており、それによる借家権の価格二六七五万円を借家人と家主で二分の一ずつ分け合うとしている点も必ずしも十分な根拠を見出せず、借家権割合方式による計算も前記のように土地については更地価格に借地権割合八〇パーセントと借家権割合三〇パーセントを乗じることにより得られた数値に対して、更に現存建物の階層別効用積数を最有効使用を前提とした階層別効用比率の積数で除するという方法を採用しているが、このことは、結果的に最有効利用のうち現存の借家部分のみの効用積数比を借家人に配分し、残余の大部分を占める建築可能な空間の効用積数比を家主に配分することとなって、本件のような家主から借家人に対して敷地の有効利用などを理由として明渡しを求めている事案にその方式が適切かどうか衡平上疑問の余地がある。したがって、緒方鑑定中の借家権価格を直ちに採用することは躊躇せざるを得ず、むしろ諸般の事情から借家権価格としては右鑑定中控除方式から得られる(配分前の)二六七五万円程度を参考とすべきと思われる。
(三) ところで、本件建物部分の明渡しによる控訴人の不利益は、単に借家権の喪失に止まらず、今後他に新規の店舗を確保しても固定客の喪失等による営業上の損失が大きく、営業不振ないし営業廃止の危険性があること、代替店舗確保に要する費用、移転費用等が多額に及ぶことなどの諸点を勘案すれば、被控訴人の解約申入れの正当事由を具備するための立退料としては少なくとも金四〇〇〇万円の提供を要するものと認めるのが相当である。
なお、控訴人は、仮処分決定を得て平成五年二月に約四〇〇〇万円の費用を投じてH鋼材枠組み設置を含む大がかりな内装工事を行ったが、右工事終了直後の平成五年四月三〇日には被控訴人から本件訴えが提起され、本件建物部分を明け渡すことになれば右の投下資本も十分回収できないというのである。なるほど右の工事は仮処分決定に基づくもので違法な工事ではないが、前記のとおり、控訴人の仮処分申立ての理由は、亀裂の入った梁の補強等、基本的には賃借人の必要費償還請求権の生じる範囲内の工事として主張され、これが認容されたのに対し、実際に行われた工事は、営業上の必要からの内装工事の範疇に属するものであり、間接的に本件建物二階の陥落等の危険に対する下支えの効用はあるにせよ、右の工事に要した費用が必要費償還請求の可能な範囲のものとはにわかに認め難く、有益費に当たるかどうかも明らかではない。その上、控訴人は、前記調停事件ないし仮処分事件における被控訴人側とのやりとりを通じて、被控訴人が店舗改修を容易に承諾せず、更新拒絶を含めて契約関係を終了させる意思を有していることを承知の上で右の工事を行ったものであること、さらに、《証拠略》によれば、控訴人は、株式会社ワコール、株式会社レナウン等大手の支援約束をした提携仕入先との間で二三坪の売場面積を確保する見返りの一つとして本件店舗の内装代を各仕入先が全額負担する旨の約定があったというのであり、平成五年の前記内装工事の費用についても、最終的に控訴人の負担となったかどうか疑問の余地があることに照らせば、前記約四〇〇〇万円の工事費用をそのまま借家人たる控訴人の明渡しに伴う損害として斟酌することは適当でない。
(四) 被控訴人は、正当事由の補完として、金五〇〇万円又は裁判所が相当と認める立退料を提供する用意があるとし、右認定の立退料の金額は、被控訴人の提示額を大きく超えるものであるが、被控訴人は本件建物部分の明渡しを受けた場合には敷地に七階建てのビルを建築することに強い意欲を持っており、その他弁論の全趣旨に照らすと、右金額程度の立退料を支払う意思を有するものと認められる。
そうすると、本件建物部分に関する被控訴人の明渡しの請求は金四〇〇〇万円の支払いと引換えの限度で理由がある。
第四 結論
そうすると、建物朽廃を理由として本件賃貸借契約の終了を認めた原判決は相当でなく、被控訴人の借地借家法二七条による本件賃貸借契約の解約申入れによる本件建物部分の明渡しの予備的請求は金四〇〇〇万円の支払いと引換えにする限度で理由があるから、原判決を変更して右の限度で被控訴人の請求を認容し、その余の被控訴人の請求は理由がないから棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法六七条二項、六一条、六四条本文を適用して、主文のとおり判決する。
(平成一〇年五月二七日口頭弁論終結)
(裁判長裁判官 荒井史男 裁判官 大島崇志 裁判官 豊田建夫)